子供の心理学

中島敦の『山月記』より、李徴の教訓を生かして子どもに何を伝えるか

こんにちは。
不登校支援センターの末松です。

今回は、中島敦の『山月記』を取り上げ、「自尊心」と「羞恥心」について考えていきたいと思います。(同作は青空文庫で公開されています)

山月記の物語

あるところに李徴(りちょう)という青年が居ました。
彼は頭脳明晰で、才能に恵まれていました。彼は若くして役人に就くことができたのですが、位の低い役人であることに満足せず、詩人として世に名を残すため、故郷に帰り人との交わりを断ち、作詞に励んでいました。

しかし、詩人として名を上げることができず、生活はどんどん苦しくなっていきました。貧困に耐えられず、また妻子を養うために、再び地方の役人となりました。そのことには、詩人としての人生への絶望もありました。かつての同僚ははるか高い地位に就いており、以前は彼が相手にもしなかった連中から命令されるようになり、元来自信家であった彼の自尊心はひどく傷付いていきました。

1年後、彼は遂に発狂して暗闇の中に飛び出し、戻ってきませんでした。

翌年、袁さん(えんさん)という人が、夜明け前の林の中を歩いていると、一匹の虎が草むらから現れました。虎は袁さんに飛び掛るかと思いきや、身を翻して草むらに隠れ、草むらの方から「危なかった」という声がしました。

袁さんはその声に聞き覚えがありました。李徴の声だったのです。2人は同じ年に役人の試験に合格した、友人でした。袁さんは李徴に声をかけ、「その声は我が友人の李徴ではないか」と尋ねました。すると、「その通り、私は李徴である」と返事がしました。

そこから二人は久しぶりに会話を交わします。
途中、袁さんは李徴に、どうしてそのような姿になったのか質問しました。李徴は、自分の名前を呼ぶ方へ夢中で駆けているうちに虎になっていたこと、1日のうち数時間は人間の心が戻ってくること、やがて自分の中の人間は消えてしまうだろうということを袁さんに話しました。

そして、自分の中の人の心が消えてしまう前に、自分の詩を記録して伝えて欲しいと頼みました。袁さんはそれを引き受け、部下に書き取らせました。

夜明けが近づいてきた頃、李徴は「自分が虎になった理由について、思い当たることがある」と、以下のように語り始めました。

それは「臆病な自尊心」とでも言うべきものだ。
詩人として名を上げようと思いながらも、進んで誰かに師事することもせず、同じく詩人を志す友と交わって切磋琢磨することもしなかった。かといって、凡人として生きることにも満足しなかった。

それはどちらも自分の「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」のせいだった。自分に才能がないことを恐れるがゆえに、努力して腕を磨こうともせず、自分には才能があることを半ば信じるがゆえに、凡人に紛れることにも満足しなかった。次第に世間と離れ、人と遠ざかり、憤りや恥じらいによってますます自尊心を飼い太らせる結果となった。

人は誰しも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、生まれつきの性質である。自分の場合、この尊大な羞恥心が猛獣であり、虎だったのだ。これによって自分を失い、妻子を苦しめ、友を傷つけ、挙句の果てには自分の外見までをも自分の内面にふさわしいものに変えてしまった。

今思えば、自分は持っていたわずかな才能をも無駄にしてしまった。
「人生は何事をも成さぬには余りに長いが、何事かを成すには余りに短い」などと口先だけの警句を弄んでいたが、実際のところ、「自分の才能の不足が露呈してしまうかもしれないという卑怯な恐れ」と、「苦労して努力することを嫌う怠惰」とが、自分の全てであった。

自分より遥かに乏しい才能でありながら、それを熱心に磨いたために堂々たる詩家となった者がいくらでもいる。虎となった今、ようやくそれに気が付いた。それを思うと、今も胸を焼かれるような後悔を感じる。

日毎に心は虎に近づいていて、無駄に浪費した過去を思うと堪らなくなる。そういうとき、向こうの山の頂の岩の上で、誰も居ない谷間に向かって吠える。この胸を焼くような悲しみを誰かに伝えたいのだ。獣どもはただ恐れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、ただ一匹の虎が怒り狂って咆哮しているとしか考えない。誰1人として、自分の気持ちを分かってくれる者は居ない。ちょうど人間だった頃、自分の傷付きやすい内心を誰も理解してくれなかったように。

やがて朝が近づき、李徴の心が虎に戻る時間が近づきました。
そこで袁さんに、自分は死んだと妻子に伝えてくれ、とお願いします。付け加えて、自分が人間の心を失い、襲い掛かってしまうかもしれないから、ここはもう通らないように、と袁さんにお願いします。

涙ながらに袁さんは李徴と別れを告げ、丘の上から先ほどの草むらを振り返りました。そこには一匹の虎が、白く光を失った月に向かって吠えていました。やがて虎は草むらの中へと消えていきました。

「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の私なりの解釈は

いかがだったでしょうか?
私は高校生の頃、国語の教科書に載っていたこの作品を読んでから、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」というフレーズが心に残っていました。

私なりの解釈をすると・・・

臆病な自尊心とは、「自分が劣っていたらどうしよう」と恐れる心と、「自分は優れているはずだ」と信じたい心が入り混じったもの。
努力した結果、やはり「才能がない」のが明らかとなることを恐れるため、努力すること自体を避けてしまう。努力しないままでいれば、「やれば出来るんだ」という可能性を残しておけて、プライドを保てる。

尊大な羞恥心とは、他の人とは違って、自分は「特別な人間」であることを信じたいが故に、他者を見下し、他者との関わりを避けてしまう心。
自分は「凡人ではない」と思い込み、他者と共に励ましあって技能を向上させることを「恥」とする。

ということかと思います。

「褒める教育」と「臆病な自尊心」の関連

人との関わりに苦痛を感じ、気楽になれない子どもの中には、この「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の傾向が見られますが、そういう心理に陥ることって、大人でもよくあるのではないでしょうか。
私自身、自尊心を飼い太らせていたからこそ、このフレーズが引っかかっていたのだと思います。

ところで、人って「優れていること」に着目して褒めがちですよね。足が速いとか、テストで点がとれるとか、話が面白いとか、容姿がいいとか。

この物語は「褒めて伸ばす教育の弊害」の核心を突いているのではないでしょうか。褒める教育では「優れている」ことに価値を置くので、優れていなければ評価されません。
主人公の李徴は、詩家として名を残したかった、と書かれてありますが、突き詰めると、詩家として名を残すことで「認められたかった」のではないでしょうか。認められるためには、詩家として優れた才能を持っていなければなりません。才能がなければ認められない、ということで苦しんだのではないか、と私は思います。

「自分はやれる」「自分はすごい」と思うことって気持ちのいいことですから、そう思えると前向きになってやる気も希望も持ちやすくなるかもしれませんが、一方では劣っていることを恐れるようにさせる教育でもあります。

しかし、集団の中で生活していると、「自分が人より劣っている」と感じる場面がどこかしらありますね。そこで苦しむこともあるでしょう。

  • 「自分は劣ってない」
  • 「自分には才能があるはずだ」

と思い込もうとするプログラムが人の心には埋め込まれているようですが、そのプログラムに踊らされて「自分の優劣」に執着して生きて、その先に何があるのでしょうか。
「執着は苦しみの原因である」と言われたりしますが、子どもを取り巻く大人が、子どもの「優劣への執着」に一役買っていないか気をつけなければならないのではないでしょうか。

李徴は最後の方で、このように言います。「自分の詩よりも、妻子のことを先にお願いすべきだった、自分が人間だったなら。」
飢えと寒さに苦しんでいる妻子のことよりも、自分の詩家としての業績なんぞを気にかけるから、自分は虎になったのだ、と。

勝手な解釈かもしれませんが、彼は自尊心とか羞恥心とか自分の業績なんかよりも、家族への思いやりの心を持つべきだったと悟ったのでしょうね。

李徴の教訓を生かして、子どもに何を伝えられるか

せっかく中島敦がこのような物語を残してくれたのだから、現代を生きる我々は李徴の教訓を生かしていきたいものです。

「才能」や「優劣」に固執した生き方では虎になってしまうかもしれない。人間ならば、人への「思いやりの心」を育まなければならないそういった教訓を生かした子どもへの接し方はどのようなものでしょうか?

子どもの「優劣への執着」ではなく、「思いやり」を育んでいこうと思ったならば、その子の「優れているところ」や「劣っているところ」に注目してコメントするのでなく、その子が「思いやりを発揮できたところ」に注目してコメントすることが大事になるでしょう。

そして、本人が「人のために」と意識せずにやったことであっても、「あなたがやってくれたことが、私の、誰かの役に立っているんだよ」ということを教えるのも大事でしょう。

さらには、「やってくれたこと」ではなく「あなたがこの世にいること」が私にどんな影響をもたらしているか、ときには教えてあげるのもいいでしょう。

生きてるうちは、子どもに対して

  • 穀潰し
  • 悩みの種
  • 居なくなったら清々する 等

思うこともあるかもしれませんが、本当に居なくなったら悲しいでしょう。今は子どものことで悩んでいるけど、それによってもっと別の自分自身の悩みから距離を置くことに役立っているかもしれません。生きているだけでも誰かの心の支えになっているものです。

「臆病な自尊心」をまさに飼っている人にとっては、「自分が役に立っている」だなんて、そうそう認められないかもしれません「自分のせいで家族に迷惑をかけている」「自分は無能だ」と思っている人にとっては、温かい言葉でさえ皮肉に聞こえてしまうでしょう。

そんなときは仰々しく伝えても跳ね返されるかもしれませんから、簡単に一言、「ありがとう」くらいに抑える方がよいでしょうね。

優劣とか、何をしている・していないとかいった行動レベルではなく、存在レベル、相手が生きているということを大事にしていきたいものです。

 

それでは、またの機会にお会いしましょう。無料面談について詳しくはクリック不登校支援無料相談会について詳しくは

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